山田 双也 プロフィール

1971年12月生まれ。
2010年草月流入門。初代家元勅使河原蒼風直門、故富田双康先生に師事。草月流一級師範総務。今までの「学ぶ楽しさ」から、これからは「教える喜び」にシフトチェンジし、2021年4月より長年通い慣れた教室をお借りし、いけばな教室を開講。自身の教室以外でも、店内装飾や中学校PTA生け花教室、親子参加型のワークショップなど、多方面でも生け花の楽しさを伝えている。

花との出会い

20年以上も昔、私が飲食店でアルバイトをしていた際、週末ごとに祝い花が店に届き店頭を飾った。閉店後になると、それまで美しく店頭を彩っていた花達を、「不要なもの」としてスタッフは躊躇なく捨てた。私はそれに待ったをかけ、「持って帰る。」と言い放ち、70Lのごみ袋に花を詰め込み、家に持ち帰った。「まだまだみずみずしい花を捨てる…」意味が分からなかった。祝い花は毎週のように店頭を飾る。たくさん届いた日などは私のテンションは上がった。「土産物がたくさんだ!」と。しかし、それとは逆に「こんなに届いたら後片付けが大変だ」と嘆くスタッフもいた。私の花に対する感情と、一般的な人との感情との間に違和感を覚えた。片手に収まるくらいの、そこはかとない量の花を持ち帰る奥ゆかしい子はいたが、私のように「捨てるくらいならっ!」と欲張って、70L×2でお持ち帰りするような強者はいなかった。花を救済すべく持ち帰ったはいいものの、当時の私には、花を美しく飾る力量も術も無く、結果、お持ち帰りした花を痛ませてしまうこともあった。ただ、今思うと、頻繁に花がそこにある、といった状況が、のちの私の「いけばな」の原点になったのかもしれない…

「いけばな」との出会い

唐突だが、当時、実家の新築を行っていた。玄関を入った真正面の壁は、最初はただの無機質な白だった。その空間があまりにもつまらなく、大工が知り合いだったこともあり、無理を言ってすでに貼られていた壁をはがし、できる限り奥まで下げてもらうよう頼み込んだ。15cmだけしか下げられなかったが、私にとっては十分な「花いけスペース」を確保することが出来た。ここに今後は花を飾っていこうと。決められた場所に花を飾るのは特別で楽しかった。長らく飾ってみて芽生えた感情があった。「このまま我流で好き勝手にここに生けていてもなんら成長はない」と。いつしかちゃんと生け花教室に通い、「花」を習いたいと思うようになった。私でも日本の生け花にはたくさんの流派がある事くらいは知っていた。そんな中でも池坊、小原流、そして草月流、と。ざっくりではあったが、日本3大流派と言われている違いもなんとなく分かった気でいた。その中でも、私が習うとしたら草月流しかない、と決めていた。なぜなら、何度か展覧会に行った際、草月流の自由で独創的なスタイルが、まさにほかの流派とは異なり、私の好みにガッチリ合っていたからだ。他流派の生け花を見るのはもちろん楽しいことだが、いざ自分が「実際に花を生ける」ことを考えると、草月流の一択だった。それだけ私にとって、「草月流いけばな」は特別なものだった。当時は今とは違い、ネット検索でちょちょっと、という時代ではなく、雑誌で「草月流いけばな」の文字をアナログな指でツツーっと追ったりなんかする時代だった。そんな中、幸運にも家からそう遠くない場所で、のちの私の師匠となる、富田双康先生と出会うこととなるのだ。

富田双康先生との出会い

教室に入るとそこにはご高齢の男性がいた。富田双康氏である。「この先生から学ぼう!」と、まだ言葉すら交わしていないにもかかわらず、私の脳はそう決断した。いぶし銀の光を放つその男性は、いけばな初心者の私に対しても、丁寧かつ確実な生け花を指導してくださった。本来であれば、ほかの教室も見て回るものなのかもしれないが、私には不要だった。富田双康先生との出会いから、本格的な私のいけばなが始まる…

今後は私「山田双也」として、先生のもとで教えていただいた生け花の楽しさを、皆様にお伝えしていきたいと思います。